2019年7月20日土曜日

sakana biography 1983~1997 前半
















高校を卒業した翌年、1983年夏。高校時代の同級生、林山人(ドラム)と近所の高校に通っていた友達、本間正一(ピアノ)とさかなを結成した。作りためていた曲をスタジオで彼等に聴かせて「どうかな?」気心の知れた友達だったので何も云わずに演奏が始まった。曲は基本的に歌入りを想定して作っていたのだけれど積極的に歌おうとする人がいないので、インストで演奏出来るように三人で工夫する。ギターで曲を作っていたので、ギターはテーマとなるフレーズをきめて、延々とそれを繰り返すへたくそなシーケンサーのようだった。
それに合わせてピアノがベースラインとテンションコードをあてていく。唯一まともな演奏力を持っていた本間は今にして思えば随分複雑なテンションコードをつかっていたな。山人はドラムがリズムを刻む役割なのを嫌がっていて、もっと自由にメロディのようにドラムが叩きたいとかなんとかいっていた。僕はなんとなくそれが素敵な事の様に思えたので、「うん、いいじゃん、そうしなよ。」五曲くらい出来たところでライヴやりたいね。って事で練習をカセットテープに録音して都内のライヴハウスにもっていく。
始めてライヴをブッキングしてくれたのは、当時目黒にあったキャットシティというライヴハウス。「じゃあ最初はノルマ20枚ね。」いざライヴが決まってみるとやっぱり歌がないのがまずい気がしてくる。ある日山人に「ちょっと詩を書いてみたんだけど、これ歌ってみない?」「あぁ、俺もちょうど詩を書いててさ。じゃあお互いの詩を一緒にうたえばいいじゃん。」とはいっても歌なんてもんじゃなかったな。しゃべってるような時々思い付いたメロディを歌ったり。で、初ライヴ。ノルマも真面目にこなし、お客さんも一応いた。ライヴハウスの人はなぜかおもしろがってくれてその後も月一でブッキングしてくれるようになった。キャットシティの月一ライヴは一年くらい続けたのかな。最初は真面目にこなしてたノルマもだんだん出来なくなってあるときはお客さんふたりっていうのもあった。でもなにしろ作った曲を演奏するのが面白くて、一生懸命やっていた。山人とは本当に仲良しでバイトに行ってるとき以外はたいてい一緒にいた。バカみたいにいつまでも絵や最近読んだ本のはなしをしてどんなふうに曲をつくっていくか話し合っていた。やれている事はたいした事ないとはいえ、話し合った事の密度だけは濃かったな。そんなふうにしてるうちに繰り返し見に来てくれるお客さんが出来はじめた。そんななかにはライヴの企画をしているものだけど良かったら今度出ませんか。と云ってくれる人もいたりして。で、キャットシティ以外のお店にも出る様になる。そんなあるとき本間が辞めてしまった。当時本間はスタジオミュージシャン育成の専門学校に通っていて早く音楽で仕事出来るようになりたいから。と云っていた。
山人はドラムセットをやめてパーカッションに。僕はギターをアコースティックにもちかえてふたりともそれまで以上にたくさん歌う(しゃべる)ようになりますますアホみたいだった。そんなあるとき山人が「俺実家帰るよ。なんか疲れちゃってさ。」「ええ。なんで。もっとやろうよ。いっぱい曲も作るからさ」でも山人がこう言い出したらどうしようもない。実家帰っちゃった。淋しかったな。毎日コンビニでバイトして帰ってくると曲ばかり作っていた。一日一曲。いっぱいたまったから、また一年ぐらいしたら山人と出来るとおもって。一緒に遊ぶ相手がいなくなったので暇なもんだから絵をたくさん描き始める。毎日たくさん。描けばだれかに見せたくなるもんだから公募展などに片っ端から応募する。毎月どっかに送っていた。そんなある日友人の中村きよし君から電話。「よう、今度の日曜日ひま?いま俺が手伝ってるバンドでギター探してるんだけど来てくんない?」「どんなバンドなの」「まぁパンクなんだけど。」「じゃあ恐いんじゃない?」「平気だよ。なんもしやしねぇから。ちゃんと来いよ。じゃあな。」やだな。どうしよう。中村くんは僕が19歳くらいの時大好きでよく見にいっていたコックサッカーズというバンドでドラムを叩いていた人。このバンドにはジョージというギタリストがいてこの人のギターが大好きだった。曲も良かったけどこの人が作っていたな。何度か見に行くうちにこの二人と友達になった。ふたりとも絵が好きだったからよく本屋に行って高価な画集を何時間も立ち読みしたっけ。ハンスベルメールを教えてくれたのはジョージだった。「なんかこういうのってスゲェじゃん。」
でもって、日曜日。やだけど行かないのも恐いので高円寺のスタジオヘ。中村くんがメンバーを紹介してくれる。「ギターのりょう、ベースの美沙緒ちゃん、ボーカルのノン、ゴットってバンドだから。」「、、、よろしくおねがいします。」「で、こいつ西脇、まぁギターへたくそなんだけどさ。こいつしかいなくてよぉ、今日ひまなの。」「OK、OK、俺達フィーリングが合えばイイからさ。」「、、、。」なんで来ちゃったのかな。でも帰るわけにもいかずセッション。なんだかよくわからなかった。「西脇くんとちょっと話したいしさ。駅前の焼き鳥屋でミーティングしようよ。」とリーダーのりょう。「いや、僕ちょっとこれから用事が、」「なに、西脇くん、急いどるの?」とノン。「ウソ、ウソ。こいつビビってるだけだから。」と中村くん。なんで来ちゃったのかな。焼き鳥屋で席につくといきなりりょうとノンが風邪薬のビンをとりだして手のひらにザラっとのせるとコンペイ糖みたいにボリボリ食べだした。「西脇くんは今日俺達とやってみてどうだった?」「え、っと、僕あんまりギター弾けないし、パンクとかやった事ないし、出来ません。」「ええ?でもロック好きでしょ。」「、、うん。」「じゃあOKだよ。俺達、今日楽しかったしさ。」「いや、でも僕、家で静かにしてるのが好きだし。」「あっ。もしかしてさぁ、俺達のことすげぇワイルドな人たちとか思ってるんじゃないの?そんな事ないよぉ。俺達すごい繊細だからさ。」「うん、。」「まぁとりあえず、いま俺達アルバムのレコーディングしとってさ。それに参加してほしいんだけど。」「後の事はまた考えればいいがや。」レコーディングがすんだらレコ発があるからって事でそれもやる事になってしまった。でも本当に出来そうもないと思っていた。たまたまタイミングが悪かったのだろうが、ゴットの練習の日に限って風邪をひいたり胃がいたくなったりしていた。「俺今度のバイト代はいったら西脇くんに養命酒買ったるわ。」とノン。買ってくれなかったけど。で、レコ発。これは辛かった。なんと当日起きてみたらひどい風邪をひいていて出かけようした時は熱が9度くらいある。行かないわけにもいかず、新宿ロフトへ。リハーサルなんてなにも憶えていない。早く帰りたくてしかたがないので、思いきってりょうに云ってみた。「もう帰っちゃだめかな。」「辛いのは分かるけどさ。せっかくいままで練習してきたんだし、なんとか本番までがんばってよ。」そりゃそうだ。「西脇くんもさ、ベリコデ(彼等が呑んでいる風邪薬の名前)飲みゃあいいがや。俺なんかもう何年も風邪なんかひかんよ。」「そりゃそうでしょうね。でも僕は風邪ひけた方がいいから。」「ふーん、かわっとるね。」で、本番。全然わけが分からなかった。ものすごいデカイ音。目の前で皮ジャンに坊主頭のいかついにいちゃんがこれでもかっていうくらい暴れている。ノンとりょうは絶好調。なんでこんなことやってんのかな。終了した10分後には小田急線に乗っていた。そんなわけで僕はその後四年間弱ゴットを続ける。中村くんは一年半後に辞めてしまった。かわりにオリジナルメンバーだった中村達也くんが復帰してそれと入れ代わりにノンも辞めてしまった。かわりにりょうが歌うようになった。ゴットを続けたのは別に彼等が恐かったからでも、ノンが養命酒を買ってくれると云ったからでもない。ただゴットが好きだったから。彼等の歌にはなぜか心を動かされたしりょうの作る曲はシンプルで力強いメロディとリフで出来ていて、りょうの弾くギターは僕など一生かかっても追い付けないほどのドライブ感に溢れていた。でも四年目のある時もういいかな。と思って辞めた。
*
1987年のはじめ頃、ゴットのライヴが渋谷の屋根裏であった。対バンはギャザースというバンド。とても素敵なバンド。いいメロディの歌がのっていて、演奏はタイトで上手かった。で、このギャザースを見に来ていた女の人となんとなく知り合う。冨田綾子さん。
「ギャザース良かったね。」「うん。でもゴットも良かったよ。」「へへへ。ほんと?」「うん。実は私もバンドやってるんだ。」「なんて云うバンド?」「ゴーバンズ。」「パートは?」「ギター。」「ライヴとかやってんの?」「うん。今度は横浜のセヴンスアベニュー。」「ふーん。じゃ見に行こうかな。」で関内セヴンスアベニュー。ゴーバンズ登場。なんかチャカチャカしたスカっぽい音。ボーカルの女の人はキャッチーなメロディをキュウキュウ云う感じで歌う。なんかファンシー。うーん、、、。そこへいきなりバカでかい音のギターソロが。それまで握っていた所からぞんざいに弾きはじめたようなそれは実は家で念入りに考えて来た事を小節の隅々まで行き渡るフレージングで物語っている。でもその計画はおそらく半分も実現されていないのもみてとれる。最高だ。僕がいままで弾きたいと願っていてもかなわなかったものが目の前で実演されていた。その瞬間から今に至るまで彼女は僕のギターの師匠だ。でも教える才能が無いのか、僕がアホなのか僕のギターは相変わらずのままだけど。と云うわけで終了後楽屋へ行き、「やぁ、ちょっと話したいんだけど。」「うん。でもすぐに出られないから。」「じゃあ駅前に*って云う喫茶店があるからそこにいるよ。」喫茶店。「やぁ、お疲れさま。」「ありがとう。来てくれて。」「いやこちらこそ素晴らしいギターを聴かせてもらってありがとう。あのファズを使ってギターソロ弾いたのはなんて曲?」「エレキ天国。」「最高にかっこ良かったよ。」「えーっ。本当?でもね、せっかく家で考えてきたのにちゃんと弾けなかったんだ。」やっぱり。「でも良かったよ。僕はいままでずっとあんな風にギターが弾きたいと思っていたんだよ。でさ、僕、ゴットの他に自分で曲を作ってさかなっていうのをやってるんだけど、それで一緒に音楽作ろうよ。」「どんな感じなの?」「うー。うまく説明出来ないから今度、ライヴのテープかすよ。」「うん。他にだれかいるの?」「うん。山人っていうドラムがいるんだけど、今実家に帰っちゃってて、さかなは活動休止なんだ。でもそろそろまた出来るんじゃないかな、と思っていて。」「ふーん。じゃあそれ聴いてから考えるね。」で、テープを渡す。「ねぇ、どうだった?」「なんか内気っぽいね。」「、、、。」「あっ。でも好きだよ。わたしも内気だし。」「、、、。一緒にやれそうかな。」「うん。私も実は曲作ってるんだ。」「いいじゃん、今度聴かしてよ。」「それと本当は歌も歌いたいんだ。」「いいじゃん。ばっちりだよ、本当は僕もちゃんとした歌が入るつもりで曲を作っていたんだ。」
と云うわけで、バイトが終わると毎日の様に一緒に曲を作るようになる。自分が今まで聴いて来た音楽で好きなものを次々に紹介し始める。ブリジットフォンテーヌ、ロバートワイアット、エリックサティ、モンク、南米の素朴な民族音楽、キンテートビオラートなど。なかでも彼女が気に入ったのはキンテートビオラート。さすが。このレコードは高校生の頃、山人から借りてそのままになっていたものだ。NHKの教育テレビにでも使われそうな素朴で寂し気な民謡で、ジャケットはただの風景写真だし演奏者の写真はみんな学校の先生みたい。彼女がこのレコードから受けた影響は相当だったみたいで、後のボンジュールムッシュサムディにおさめられた盲目のストッキングバードという曲に強く表れている。これはすごい曲だ。大好きな曲。「君の好きな曲も色々聴かせてよ。」「うん。じゃあティラノザウルスレックス。」「ストレンジオーケストラと云う曲。」「すごい曲だね。いいなぁ。いつかこんな曲出来たらいいね。」「うん。あと私もロバートワイアットに好きな曲があるんだけど、タイトルがわからない。たまたまラジオでかかったのを聴いてすぐカセットに録ったんだけど。」「今度テープかしてね。」借りたテープの曲はとても良い曲だった。僕の持っていたアルバムには入っていない曲だった。後で分かったタイトルはシップビルディング。そんな調子で好きな本の話や絵の話やどうやって音楽を作っていくかなどたくさん話した。山人んときと同じだな。彼女が好きな画家はセザンヌ、シャガール、ルドンだった。僕も好きだったけどルドンはいまいち知らない。「じゃあ今度画集みせてあげるね。」画集。変な絵だ。ただ人の顔がふわふわした色彩で描かれているだけのポートレイト。なのにぞっとするような恐さがある。目玉が宙に浮いていたり、人の顔が宙に浮いていたりするあからさまに変な絵はそうでもないのだけれどこのポートレートは恐い。「これすごいね?」「恐いでしょ。」「ちっとも恐い顔してない。っていうかとても静かな穏やかな顔なのに。」「この人死んでるみたいじゃない?」「そうだ。」死んだひとを描いた絵だってこんなに恐くはならないだろう。この絵を見ていると、死んだ人を見ているような気になるのだ。このあまりの静けさに。「でも本当に好きなの?」「うーん。なんか気になっちゃうんだよね。でも恐いから画集捨てちゃおうかな。」と云って捨ててしまった。
そうこうしているうちに曲もだいぶたまってきたのでスタジオに入る事にした。山人に連絡をとりとにかくいっぺん来てくれと。あとそのころ知り合いの紹介で出会った松井亜由美さんというヴァイオリニストに来て欲しいと頼んだ。松井さんはいろいろ活躍している人だったけど僕が知っているのはカトラトラーナというバンドで演奏しているところ。で、高円寺のスタジオでセッション。作って来た曲を冨田さんと二人で片っ端から聴かせる。久しぶりにあった山人は相変わらずで、なにも説明してないのに当たり前のように悠然と演奏しはじめる。松井さんもへんてこなヴァイオリンをキュウキュウ弾いていた。「しばらくこの四人で活動してみたいんだけどどうかな?」松井さんは快く承諾してくれた。「俺はいつまで出来るか分かんないけど、、、」「うん。とりあえずやって。」ライヴやろうってんで、ゴットをやっていた僕はりょうに相談してみる。「さかなでライヴやりたいんだけどブッキングしてくれるひといないかな?」「ゴットのブッキングしてくれてる中島くんってのがいるからこんど紹介するよ。あと今度のゴットのライヴで前座やれば。」「うん。」ありがとう、りょう。ゴットの前座ライヴを三回くらいやったとおもう。
そのうちのひとつで、名古屋でレコード屋をやっていると云う加藤という人と出会う。「こんどうちでレーベル始めようとおもってるんだけど君達うちでLP作らないか?」「ええ?本当?やりたいよ。」「じゃあ、俺来月また東京来るから、そんときレコーディングしよう。どっか安いスタジオ知ってる?」「前僕らが練習してた池袋のスタジオなら割と安いんじゃないかな。」「じゃあ今度俺がこっち来る日取り連絡するから、それに合わせてそこ押さえといてよ。」ってなわけで翌月レコーディング。メンバー四人と加藤がそろったところでスタジオのオーナーがひとこと。「今回は四日間の予定だから全部で二十五万ね。前金で半分、終わったら半分がうちのシステムなんだけど。」「あっ、そうなんですか。今日は用意してきてないんで明日必ず持って来ます。」と加藤。「分かりました。」レコーディングスタート。そして二日目、時間になっても加藤があらわれない。オーナーは「時間もったいないから始めようか。」と云ってくれて。結局その日終了間際に加藤から電話が入り「ちょっと用事が長引いちゃって行けそうもないんですけど、明日必ず持って行きますから。」で、三日目、加藤は来ない。「まあしょうがない。始めましょう。」この日は連絡も入らなかった。「君たちのことは以前から知ってるし、信頼してるけれど加藤というひとは全然知らないからね。このまま明日の作業をするわけにはいかないよ。もし彼が明日も来なかった場合、君達がちゃんと清算してくれると約束してくれるんならやるけど。」うー。どうしよう。ここまでやったのにいまさら中止できないよ。でも十万のバイト代で三万のアパートに住んでる僕にお金があるわけない。僕らの中で唯一ちゃんとした会社におつとめの松井さんが「私、十万ならなんとかできるよ。」「ええ。本当?」ありがとう、松井さん。だったら残りは僕丸井で借りるよ。(これは冨田さんと毎月一万ずつ出して返した。)ってなわけで「じゃあ最後までやらせてください。」「分かりました。」もちろん加藤来なかった。レコーディングはほぼ予定通りに進んだけれど、ミックスだけ残ってしまった。「このアルバム、いつどこから出せるか分からないんでしょう?」「うん。」「じゃあテープうちで預かってようか?」「是非お願いします。」借金をつくり、リリースの見込みの無い音源をつくった僕たちはすっかり落胆して帰った。 ゴットのライヴが名古屋のE.L.Lであった。たまたまバイトが休みだった冨田さんも一緒に行った。その日の打ち上げに以前りょうがいたスタークラブというバンドのボーカル、ヒカゲくんとそのお兄さんでスタークラブのマネージャーのミックさんが来ていた。りょうはミックさんにさかなを紹介し、加藤の件を説明して、「なんとかならんかなあ。」「じゃあうち(クラブザスター)でやろうか?売れるかどうか分からんからギャラは出せんけど。」「全然いいです。お願いします。でもミックスがまだ出来てなくて、あと十万くらいかかりそうなんだけど。」「うん。じゃあ十五万出すよ。君達も大変でしょう。」ありがとう、りょう。そしてミックさん。余分に貰ったお金は山人を除く三人で分配した。そもそも山人はこの事に関して我関せずだったので。無事完成。リリースに向けて準備。レコ発のブッキングを中島くんに頼み、ジャケットを作る。中に入れるクレジットや歌詞を載せる紙は冨田さんに作ってもらう。一緒にちょこまか作業。「冨田綾子 VO,G,ってなんかかっこわるくてやだな。なんか芸名考えようかな。」「じゃあポコペンにしたら。」「なんで?」「ポコペンってのはたぬきの絵描き歌だよ。君はたぬきっぽいからね。」「うー。」
で、このアルバム(洗濯女)にPocopen - Vocal.Guitar.とクレジット。いまだにそのままだ。そして1988年、五月に洗濯女リリース。はじめてCD屋さんに流通出来たLP。(実はこれ以前、まだ本間がいた頃、自主制作で八曲入りのLPと四曲入りのカセットを作っていた。LPは百枚、カセットは五十本だったのでさすがにライヴで売り切ったのだけれど果たしてこれをリリースと云って良いのかどうか?)で、レコ発。渋谷ラママ。この日は松井さんのスケジュールが合わなくて三人で演奏。アルバムに入れた曲は一曲も演奏せず、十分くらいの曲を三曲演奏した。一曲目に演奏したのは後のマッチを擦るにいれたお元気?だった。そんな感じで時々松井さんを交えながら、ライヴ活動。アルバムを出したあとから少しずつライヴに誘ってくれる人(バンド)も増えて、一年後には月四回くらいやっていた。曲は相変わらず毎日の様に作っていた。「ボーカルがこの音でしょ。で、ギターのベース音がこれだとこの音は変かね?」「そお、いいんじゃない。」「じゃあこれは?」「ああ、ちょっと変。」「でもなんか怪しくて良くない?」「じゃあ、一回ずつ交互にやったら?」「うん。」「ヴォーカルがそこの音んとき、ギターのこの音となんか変だよ。」「じゃあ、こうしたら、、。」「そっちのほうが全然いいよ。」音楽の理屈が全然わからず、コードネームもあまり知らない僕達はこんな拙い会話をしながら、曲を作っていた。いまもたいして変わっていない。月四回ライヴがあるのにライヴごとに新しい曲を二曲くらいやっていた。一、二回、ライヴでやったらボツになってしまう曲もたくさんあった。歌詞については、曲を提案した人が詩も書く事にしていたので僕も書いていた。でも今にしておもえばこれは良くなかった。やっぱり歌う人がつくらなきゃ。それにポコペンさんが作る詩のほうが断然素晴らしかった。スタジオでの練習は月一回しかしていなかった。週一回だって良かったんだけど、山人は月一の練習さえ一回おきにしか来なかった。週一回にしたって八回に一回しか来なかっただろう。たまにライヴに来ない事もあった。これはこたえたな。二人で傷付いて落ち込んで帰ったっけ。
で、ある時、そのころよく出さしてもらっていた代々木のチョコレートシティの人から、「今度うちではじめるレーベルからCD出さない?」「ええ。是非。」とりあえずソノシート五枚作って、その後その曲に何曲か足してCDアルバムにしましょう。ってことでマッチを擦るのレコーディングがスタート。レコーディングエンジニアはチョコレートシティのライヴPAで時々お世話になっていたエマーソン北村さん。レコーディングも大詰めをむかえてあと二曲。「最後の二曲は全員一発録音にしたい。」と云う事になり、だったらチョコレートシティでDATに直接録ってしまおう。と云う事に。そのために僕が用意していたのは、灯台へという五拍子の曲だった。まず基本となるコード進行にそって二本の裏メロディを考え、それにあらかじめ考えていた歌のメロディをのせてみる。変な曲。二本の裏メロディはギターで弾く感じじゃ無い。ギターのコードバッキングもいらないかんじだ。二本の裏メロディはヴァイオリンにしたい。そうなると、一発録音するにはもうひとりヴァイオリニストが必要だな。エマーソン北村さんに相談。「わかったっす。勝井くんって云う人がいるんで俺の紹介だ。っつって電話してみてくんせぇ。」「もしもし、北村賢治さんから連絡先を教えてもらって電話しました。さかなと云うバンドをやっている西脇といいますが、今度録音する曲でヴァイオリンを弾いてもらえませんか?」「ああ、いいよ。いつ?リハーサルは?」「リハーサルあったほうがいいかな?」「そうだね。」「じゃあ、レコーディングの当日にします。」「、、、。譜面とかあるの?」「無いです。」「だといきなり当日はきついかもよ。」「わかりました。譜面書いてみます。」「うん。」とは云ったものの譜面なんか書けるわけない。とにかく音の高さと長さが分かればいいんだから、、。フラットやシャープのつけ方がわからないのでハ長調以外の音にひとつひとつシャープやフラットをつけていく。へんてこな譜面を持ってレコーディング当日、まずはリハーサルをする池袋のスタジオ(例の)へ。駅前で勝井さんと待ちあわせて一緒に行く。「松井さん、こちら勝井さん。」「どうもどうも」ってな感じでリハーサル。「すごい譜面だね。」「はぁ、分かりませんかねぇ。」「いや分かる事は分かるんだけど、ちょっと分かりにくいっていうか、、。」松井さんと勝井さんがちゃんとした譜面に書き直してくれた。でもって、チョコレートシティでレコーディング。まずはポコペンさんが用意してきたベンチを録る。ポコペンさん以外だれもやる事が決まっていない。ラフなセッション。そして灯台へを数テイク録って終了。「どうもありがとうございました。」こうして勝井祐二さんと出会ったのだった。完成したアルバム、マッチを擦るは1990年の春先にリリース。レコ発はもちろんチョコレートシティ。お客さんもたくさん見に来てくれて、無事終了。
その後も相変わらずのペースでライヴ活動。そんなある日電話が。「あのもしもし、パロッツというバンドやっている鈴木と云うものですが。今度僕達の企画するライヴに出てくれませんか?」「いいよ。いつ?」日にちは忘れてしまったけどたしか新宿のJAMだった。こうしてPOP鈴木くんと出会ったのだった。
その後しばらくしたあるライヴの日。また山人が来なかった。落ち込んだけど、その後のライヴのこともあるので電話をするけど通じない。彼女の方に電話したら「居なくなっちゃった。どこにいるのか分からない。」まいったな。どうしよう。結局このときは山人とは連絡がつかなかった。この頃僕とポコペンさんは早くも次のアルバムの準備にかかっていた。と云うのも実はマッチを擦るの出来がいまいちだと思っていて、もっと良い作品を早く作りたいと思っていた。マッチを擦るでのさかなはまだ山人と僕が二人でやっていたこととポコペンさんがギターを弾いて歌うことをただ足しただけに近かったから。もっと歌を聴けるように曲の作り方を変えていかなくちゃ、、。しかし曲の構造がどうだとか考える知能もなく。
「じゃあ歌以外を物凄く静かにすればいいんだよね?」「うん。じゃあ私単音しか弾かないね。」「うん。僕はアルペジオしかひかないよ。」「でもこれだけだとなんか平べったくないかな?」「じゃあリバーブいっぱいかけたら。」「うん。」などと云いながらレインコオトや樹といった曲を作っていた。「いい感じだから何曲か録音しようか?」「うん。でもお金は?」安いスタジオ一晩なら三万くらいで借りれるので、とりあえず生活費を使い込み一晩で録れるだけの曲を録る事に。そのためになんとしても山人と連絡をとらなくては。直接家に行ってみたら居た。「新しい曲がいい感じで出来てるんで一日だけレコーディングしたいんだけど」「お金は?」「とりあえず自分達で出す」「どんな感じ?」「物凄く静かな感じ「ふーん、いいよ」というわけで、レコーディング。もしこれがいい感じに録れたらチョコレートシティに連絡して続きをやらしてもらってCDにしてもらおうと思っていた。しかし山人はあらわれない。仕方が無いので二人でレコーディング。なんとなく思い描いていた感じのものは録れたのだけれど山人がいなきゃしょうがない。落ち込んだな。もうやだ。とおもった。僕はポコペンさんのようにギターを弾いて歌って、ひとりで音楽を成立させるような能力がない。今ならそんな風に考えるのはずっと一緒に音楽を作ってくれている彼女に失礼なので考えない。でもその時はそう考えてなおさら落ち込んでいた。もちろん彼女も落ち込んでいた。そんなある日。「あのさ、僕しばらくさかな休みたいんだ。」「決まってるライヴはどうするの?」「もし君も休むんなら、僕が電話して事情を説明してあやまるよ。」「私ひとりでやる。」さすがなんだ。かないっこない。でもいじけていた僕はひとりアパートに引きこもって絵ばかり描いていた。ってなわけでこの年の6,7,8月の暑い間、僕はバイトに行くときとポコペンさんに会いに行くとき以外、ほとんどアパートに引きこもっていた。
さかなのライヴはその間に4回あり、そのひとつは大阪だった。そのうちの三つはポコペンさんはひとりでガッチリ演奏した。残りのひとつでは鈴木くんがドラム、友達のジョージがギターをやったらしい。そんな彼女の様子をみて、9月のある日、こんなことじゃいかん。と思う。「ごめんなさい。僕もう一度がんばるから。もうこんな無責任な事はしない。だから一緒にさかなやろう。」「うー。うん。」ってなわけでまた山人の家へ。「もう一回三人でやろうよ。なんかやりたくない理由があるなら云ってくれ。」「べつにやりたくないわけじゃないんだけど。でも時々つかれちゃってさ。いつまでこんなことやってんのかなぁとかおもうと、、。」「そう。でも今度はさ、今までとちょっと違った感じの事をやりたいとおもっててさ。もしそれに興味が湧いたらやってよ。」で、いろいろ水というアルバムについて思い描いていることを話す。山人はそれに興味をもってくれてアンビエントなノイズと極端にシンプルなパーカッションを担当することになる。チョコレートシティに電話。「さかな三人で再開します。これからはちゃんとやります。アルバム作らしてください。」「いつやるっすか?」「今やる気が盛り上がってるんでなるべく早く。」「へぇ、分かったっす。北村さんと相談して決めとくっす。」で9月27日。目黒マッドスタジオにて水のレコーディング開始。(なんで日にちまで憶えているかというと誕生日だったから。でもこの日の事はとてもよく憶えている。行きの電車の中、ウォークマンで聴いていたアルバムも三人が着ていたものも。みんなで食べた弁当も。)このアルバムは3日間で録音した。歌も含め全てを一発録音だったのでマルチには録らず、北村さんがエフェクト、ミキシングしながら直接2トラックのテープに録っていった。無事終了。その後すぐにライヴ活動へ。直後のライヴはどっかの学園祭だった。


翌年1990年12月水リリース。レコ発はチョコレートシティ。その後は相変わらずのペースでライヴ活動。この頃の山人はリズムボックスの様なドラムを叩いていた。使うのはハイハットとスネアだけ。ハイハットがパカパカなっているところへマイクを近付けて置き、風圧でマイクをボフボフ云わせる。それをPAで調整するとモォフ、モォフと変なバスドラみたいな音が出た。山人はこのアイデアが大変お気に入りだったようでライヴにはいつもちゃんと来て機嫌良く演奏していた。僕とポコペンさんは早くも次のアルバムのための曲作りに励んでいた。山人のおかしなドラムを生かすために無機質で飄々とした曲を作ろうと云う事に。そんな感じである日のこと。チョコレートシティから電話。「今度さかなでワンマンライヴやってくんせぇ。」「ええ?でもお客さんがきてくれるかな?」「まぁがんばってチラシとか配ってみてくんせぇ。もし入らなくても罰金とかはねえっすから。じゃっよろしくっすぅ。」ってなわけで二人に報告。がんばんなきゃねって事で当日。6月。チョコレートシティで初ワンマン。「ちゃんとお客さんきてくれるかしらね?」三人で気を揉む。「まあ上手くいけば50人くらいはきてくれるんじゃない?チラシもがんばって配ったし。」「うー。緊張するよー。」この日用意した曲目は全部で21曲。果たしてこんなに演奏できるのか?このころのさかなは曲のサイズが短く、しかもたいていのライヴは5,6曲しか演奏しなかったので30分くらいだった。それがいきなり一時間半以上演奏しようというのだから。開場。楽屋から様子を伺う。ちらほらお客さんが入ってくる。「これなら50人くらいきてくれるかも。」「よかったー。」三人ちょっと安心。この日ははりきって始まる前のSEまで用意。マグネティックフィールズのアルバムが爆音でかかる。本番。ステージに上がってビックリ。目の前にたくさんのお客さんが。まさかこんなに来てくれるなんて。演奏スタート。山人ってのはげんきんなやつでなんだかやけに元気の良いドラムを叩いてご機嫌だ。いつもはタコみたいな変な動きで叩くくせに今日はやけにすかした叩きっぷり。三人で楽しく演奏。無事終了。「お疲れさまでした。」今日のライヴに来てくれたお客さんは161人。この記録はワンマンライヴとしてはこの後12年間更新されなかった。