2019年7月20日土曜日

sakana biography 1983~1997 後半



















山人が機嫌のいいうちに早くアルバムを録音してしまおうってんで、チョコレートシティに電話。「なるべく早く次のアルバム作って欲しいんですけど。」「分かったす。じゃあ8月にやりましょう」1991年、8月。日野にあるスタジオ、エムズプロット。夏レコーディングスタート。この時ワールドランゲージというもういちまいのアルバムも録音し同時にリリースした。エンジニア、プロデュースはエマーソン北村さん。この時面白かったのはジャケット用の写真撮影。撮影ったってカメラマンを用意してもらえるはずもなく、友達から借りてきた小さなカメラで自力撮影。まずはスタジオの近所の野っぱらに行って三脚を立て、三人で記念撮影。その後スタジオに戻り個人の写真をとる。この時とって夏のジャケット表1に使われたポコペンさんの写真はその後しばらくの間、物議を醸した。もちろんいい意味でってな感じでレコーディング無事終了。そしてまた相変わらずのライヴ活動。しかしこの頃あきらかに山人は元気がない。「どうしたの?」「俺、、いつまでこんな事やってんのかな。」まただ。ようするに山人は新しい事を何か思いつき、それが新鮮なうちはがんばる。そしてそれをなんらかの形におさめてしまって次の思いつきを得るまでの間がこうなのだ。まあ誰だってある程度そうだろうけどこの人はそれが極端なのだ。でもそのころは僕もポコペンさんも同様に落ち込んでいた。なにか新しい思いつきも特になくて、山人にじゃあ次はこういうのやってみようよ。といえるものが無かった。なので山人はさかな以外のところで何か新しい事を探していたんだろう。一応ライヴには来ていたけれど、あきらかにやる気がなさそうだった。にもかかわらず、チョコレートシティから電話。「夏とワールドランゲージ11月に出すんでレコ発やってくんせぇ。あと続けて関西にツアーよろしく。」11月チョコレートシティ。夏、ワールドランゲージ、レコ発、ワンマン2デイズ。翌日から名古屋E.L.L、京都西部講堂、大阪ファンダンゴへ。この時の山人はもしかしたらツアーには来ないんじゃないか。と思うほど元気がなかった。でも来た。その後のライヴ予定をヨタヨタとこなしながら年を越す。で翌年1992年のあるライヴの前日。山人の彼女から電話が。「昨夜山人君、胃炎の発作を起こして倒れて入院しちゃったの。だから明日のライヴ行けないって。」「ええ。病院どこ?」びっくりして病院へ。「ごめんね。明日いけなくなっちゃって。」「いいんだよ。大丈夫?」「うん、でもものすごい暇だな。」「じゃあこれ。」差しいれに持っていったトゥーサンのムッシューをわたす。胃炎じゃ食べ物はまずいからね。翌日のライヴは二人で演奏。何日かしてまた山人の病院へ。少し元気そうだ。よかった。「やあ、どう?」「うん。明後日退院出来る事になったよ。」「良かったね。」「でさ、僕もうバンドやれそうもないなって思ってるんだ。」「で、これからどうするの?」「家に帰ったらゆっくり考えようかなとおもって。」「そう。残念だけど。でもまたいつか一緒に出来る時があったらいいなって思うよ。」「うん。」「じゃあね。」「うん、またね。」この後山人とは五年間会わなかったな。

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その後のライヴを二人でやっていく。このころはだいぶライヴの誘いが減って来ていたので月二回くらいだった。これからの事についてポコペンさんとお話。「山人はもうもどってきそうにないねぇ。このままさかなとして続けていていいのかなぁ?」「私はさかなとして続けていきたいよ。またいつか山人くんもどってくるかもしれないじゃない?」「うん。そうだね。」この頃、家でよく聴いていたのはブライアンイーノやジョンハッセル、パスカルコムラード、ロバートワイアットなど。自分にこんな高度な音楽が作れるとは思っていなかったけど、ひとりで密室作業で音楽を作る事に興味をもっていた。ある日友達からシーケンスソフトやサンプラーというものがある事を教えてもらう。うー。なんかすごそう。ほしいなぁ。しかしこのころのこうした機材は今の物と比べたら機能的にはハナクソだけど値段は今よりはるかに高価だったとおもう。買えるわけない。あきらめる。その時僕が持っていた機材?はエレキギター一本とラジカセ一個とクラシックギター。友達からラジカセを一個借りて来た。まず単純なシーケンスパターンを考えてギターを弾いて、ラジカセに録音。それを流しながら重ねるギターフレーズをもう一個のラジカセで録音。こうやっていけばいくつでもオーバーダビングできる。でも五個目くらいになるとザーっというノイズの方が大きくなってしまう。これが面白くて次々に曲を作っては録音。20曲くらい作って10曲ボツにするけど10曲出来た。どうしようかな。山人がいなくなった落ち込みから逃れたいのと山人ぬきのさかなでアルバムを作る気になれなかったのとで、これらの曲をソロアルバムとして作る事を計画。もちろん歌はポコペンさんに頼むつもり。テープをもってポコペンさんに会いに行く。テープを聴いてもらいながらやりたい事を説明。彼女は快く承諾してくれた。で、チョコレートシティに電話。「僕のソロアルバム作って欲しいんですけど。」「あー?まじっすか?」「ええ」「まあいいっすよ。北村さんと相談してまた連絡するんで」ってなわけだったんだけど、それから数日経ったころ、チョコレートシティと僕たちとの間でちょっとした誤解が起こり結局その後チョコレートシティとの関わりはなくなってしまった。

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さて、どうしよう。以前ライヴに誘ってくれた事があるSSEの北村昌士さんに電話してみる。「さかなというバンド(?)をやっている西脇といいますが、僕のソロアルバム作って欲しいんですけど。」「いいよ。いつ?」「なるべく早く。」で、ソロアルバムのレコーディングに入る。場所は梅が丘のクレーンスタジオ。1992年、3月、森、レコーディングまずはボーカル以外のパートを録る為にひとりでスタジオへ。クラシックギター、ガラクタの自作楽器、オカリナ、そしてチェロ。(ったって笑っちゃうようなもん。)などを持って大荷物。ちょこまか音を重ねていく。この時のエンジニアのにいちゃんはえらく無愛想で態度が悪い。僕はレコーディングでいつもやたらとやり直す。まぁへたくそだからなのだが、気に入らない演奏になるのはやだからね。ってなわけでギター録りながら「すいません。もう一回。」「はあ」「すいません。もう一回。」「ったく。」「すいませんもう一回。」「ったく、早くしろよ。「すいません。もう一回。」「、、、。」「すいません。もーいっかい」「、、。」ってな感じでそのうちなにもいわなくなる。でも気にしない。こっちはそれどころじゃないんだよ?でもってポコペンさんが来て歌入れ。無事?終了。電車で居眠りをしたら降りる駅を乗り過ごしたようなしょうもないアルバムだった。

しかしながら出す以上はレコ発。吉祥寺マンダラ2。1992年、夏だった。この日のためにバンドを作った。ドラムは鈴木くん。ヴァイオリン勝井さん、当時割礼でギターを弾いていた山際秀樹さん。ポコペンさんはベースを弾きながら歌った。みんな素晴らしい演奏をしていたけれどこのバンドはその後2回くらいライヴをやって終わってしまった。その間もさかなとしてふたりでライヴはやっていた。

ある日ポコペンさんの家に遊びに。「やあ。」「私新しい曲作ったんだけど。」「うん。」三曲くらいテープを聴かしてもらう。たのもしい王子やモナリザなど。ものすごいいい曲。「すごいじゃん。本当に。」「へへへ、そお?私もさ、ソロアルバムつくってみようかな?」「いいじゃん、是非やりなよ。」「そしたらギター手伝ってくれる?」「もちろん。それに北村昌士さんに頼めばきっと喜んで作ってくれるとおもうよ。」「うん。」その後彼女は一生懸命がんばって他の曲の準備を進めた。

1992年、12月。ボンジュールムッシュサムディ。レコーディング開始。僕は五曲くらいへなちょこなギターを弾いただけであとはずっと見学していた。たのもしい王子にポコペンさんがベースを重ねている。ものすごいベース。ゴーバンズで始めて彼女のギターを聴いた時と同じショックを受ける。彼女の歌のメロディはとても力強くて美しいけれど、楽器で奏でるものはまた違っている。なんか不思議なタイミングで音が入る。これについて僕はずっと後になってから彼女に聞いたことがある。「なんで?」「そりゃ普通入れなさそうなところに音を入れるようにしてるからね。」そうなのか。やっぱ考えてるんだ。でも考えてああなっているというのはなおさら変な気もする。「別に変にすりゃいいってもんじゃないのよ?それにアクセントをつけるのが重要なんだから。なんていうのかなあ、ふふふ、まあ西脇くんはまだまだこのへんのことはわかってないからね。」「、、、。」そうなんだ。僕はいまだに分かってない。「あのベース考える時だれか参考にした人とかいるの?」「ラリーグラハム。」そういえばあのころよくスライの暴動を聴いていたな。うーん。たしかになんとなく彼女の意図がわかったような気がする。でも暴動に入っているへんてこなベースのほうは実はスライが弾いている。でも当時は二人とも知らなかった。そして彼女のベースはやっぱりだれにも似ていない。彼女は本当に頑張っていた。それを見ていてとても刺激をうけたし励みになったな。そうか。自分が本当に作りたいと思ったものを守るためにはこんくらい頑張んなきゃいけないんだ。無事終了。「私、こんなに頑張ったの生まれてはじめてかも。」と云っていた。

1993年、4月、ボンジュールムッシュサムディ、リリース。レコ発はマンダラ2にて。このレコ発をするために彼女と話し合った。「バンドでやるの?」「うん。」「だれにする?」「ドラムは鈴木くん。あと服部さんになんかたのめないかな?ベースもほしいけどいるかなあ。」「うーん、いないねえ。北村昌士さんに聞いてみようよ。」「うん。」服部さんは時々さかなをライヴに誘ってくれたイカノフユをやっていたひと。ギターがとても上手い人だけれど、他にもバンジョーやスチールギターなどが出来る。なのでスチールギターとバンジョーをお願いした。そして北村昌士さんに「誰かベース弾いてくれる人いないかしら。」「ディップザフラッグやってた伊藤ならやるんじゃない?」と云うわけで頼む事に。そういえば伊藤君に頼む事になって鈴木くんはすごく喜んでいたな。でレコ発。なにしろ曲と歌がいいのでお客さんもとても喜んでいた。その後この時のメンバーで新しいバンドを結成しようと云う事になった。

そのころとある公募展で賞金が貰える事に。べつに自慢しているわけではない。やった!これでサンプラーが買えるじゃん。で、サンプラーとマックとシーケンスソフトとマイクと4トラックのカセットMTRを購入。なんかいきなりすごいのが家にやってきたな。使い方を覚えるのに数週間かかったけどなにしろ面白い。サンプラー用の既成の音源を使うのはつまらないのでやめる。レコードからひろうのはセンスがないのであきらめる。身の周りのものを叩いたりこすったりしてそれをサンプリング。シーケンスはすべてステップで打ち込んで行く。ヴェロシティも全て数字で打ち込む。なんでリアルタイムで打ち込まなかったのか?こんなすごいもの手に入れたのに手弾きなんかしたら意味ないじゃん?アホだ。それじゃ平べったくなっちゃうでしょ?タメたいときはサンプラーの発音するタイミングを遅らせる。つっこみたい場合は基本となるシーケンスを遅らせてからジャストで発音。でもこうすると音程の低い音ほど遅れてしまうので、うー、なんか気持ち悪い。こんなドシロウト感満載の打ち込み作業にこの後1年近く夢中になった。でも案外早くセンスが無い事に気がつき機材は全て売り払ってしまった。そんな風にして作った曲を20曲以上もおさめた小さな家というアルバムをどっかからリリースした気がするが、あまり思い出したくもない。ちなみに小さな家はル.コルビジェの本に感銘を受けたタイトル。この本はとっても素敵な本。

新しいバンドはカメラ。別に意味はない。その時たまたま読んでいたトゥーサンの本のタイトル。たいして面白くもない小説。カメラはSSEでアルバム、ハードなハッカを作った。でもこのバンドを続けることはできなかった。皆、素晴らしいミュージシャンで素敵な人たちだった。たぶん曲が悪かったんだろう。でもそれだけなら新しい曲を作って頑張ればいいんだけど、それだけじゃなかったな。たぶん、、彼等はその時の僕にとって大人っぽすぎたのだ。酒好きの彼等はとても気さくで明るく、楽しく、でも良識をわきまえ、音楽を愛していた。会えばいつも飲み会になっていた気がする。音楽という共通言語をしっかり身に付けていた彼等とだと、新しい曲を作っていっても何度か合わせているうちにそれなりに形になった。でも僕は彼等と上手く話す事も上手く演奏する事も出来なくて、どうしても打ち解ける事が出来なかった。だからアルバムを作って何度かライヴをやってカメラを終わらせてしまった。ある飲み会での伊藤くんとの会話。「俺さぁ、これからは気のいい酔っ払いになる事にしたんだぁー。」「じゃあいままでなんだったの?」「ただの酔っ払い。」「そう。」「家でさぁ、今度のライヴでどんなベース弾こうかなぁってこぉ、考えててさ、すんげぇカッコイイフレーズ思い付いてさぁ、で、それ練習していって、本番になってさぁ、で、その曲がきて、そこんとこが近づいてきてさぁ、くるぞ、くるぞ、うーっ、やったぁ、出来た!って感じでさぁ、でもって、後で家に帰ってテープ聴いててさぁ、そこんとこ聴くと、もぉー、くぅっ、こいつ!武者震いがするぜ!!って感じなんだよね。」「よかったね。」「そお。もぉ良かったのよ、いやーほんと、俺って最高。いや俺も最高だけどさぁ、カメラも最高。いやぁー、良かった。よかったぁー!!。」「ふーん。」繊細で優しい伊藤くん。それは彼のベースを聴けばわかると思う。僕は、カメラは解散したい。と彼等に告げずになんとなく終わらせようとしてしまった。とても無責任だと思ったけど、理由があまりに身勝手で説明する勇気がでなかった。もしかしたら僕がただ辞めればカメラは続いたのかもしれない。いまとなってはどうしようもないけれど。しかしその前後のライヴはさかなとカメラの名で変則的にやっていた。そのとき、そのときで鈴木くんや服部さんが参加してくれていた。ある日、ポコペンさんとお話。「僕さ、もうカメラやりたくないんだけど。」「なんで?」「うー。なんでかな。」「山人くんとさかながやりたいんでしょ?」「うー。そうなのかな?」「そうだよ、きっと。私もそうだもん。」僕は彼女のこの言葉を聞いてちょっとビックリした。彼女は僕ほど山人と一緒にやる事にこだわってはいないと思っていたのだ。でもそうじゃなかった。彼女もとても残念に思っていたのだ。「でも山人は戻ってこないよね。どうしよう?」「ふたりでさかなをやっていこうよ。で、曲がたまったらアルバム作りたいな。」「うん、そうしよう。」

と云うわけでこの後は二人でゆっくり曲作りをしながら月一回ペースでライヴ活動。このころはライヴにあまりお客さんが来てくれなくなっていたな。「最近、私達人気ないね。」「うん。」「なんでかなぁ。どうしたらいいのかな。まあ音楽は頑張るって事で、もっと他にお客さんに楽しんでもらえる様にしたいわね。やっぱ着るものもちょっと気をつかうようにしなきゃね。西脇くんもさ、皮パンでも買ってさ。」「えー。でも似合わないよ。」「いいのよ!別に似合ってなくたって。そんな細かい事だれも気にしてないんだから。そのうちこなれるわよ。」「でも、だれも気にしないんだったら気にしてもしょうがない気がするんだけど、、。」この後彼女はライヴで着る物に気をつかい始め、ステージでたくさんしゃべるように努めるようになった。もともと、口べたなのでメンバー紹介もおぼつかないような彼女はがんばってそれを乗り越え?後にはお客さんから「今日のMC良かったです。」などと云われる様になり、さらに後には鈴木くんがPOCOPEN語録を綴る程にまでクオリティアップする。でも僕にとってはほとんど毎日がPOCOPEN語録なのでそれほど新鮮味はない。

二人で曲を作るときも歌のメロディーが力強く印象的になる様に考えるようになった。そんなある日、ポコペンさんが作って聴かしてくれたのはファン。とてもポップなよい曲。さかなでアルバムを作るための準備を進める。こんどは打ち込みでリズムトラックを作り、それに合わせてギターやベースを入れてやってみようと云う事に。とは云ってもリズムボックスに毛が生えたようなもん。しかしながら打ち込みを利用する作り方は始めての試みだったのでずいぶんゆっくりと曲を作っていたな。キーボードをエマーソン北村さんにお願いする事にした。でもって準備もだいたい整ったある日。なんとなくギターを弾きながら曲を作っていたら一日に5曲も出来てしまう。いい感じになりそう。ロッキンチェアやミュージック、などが含まれていた。どうしようかな?テープを持ってポコペンさんに会いにいく。「やあ。今日いっぱい曲が出来たから聴いてほしいんだ。」「どうかな?」「いいんじゃない。」「君もなんか新しい曲ある?」「うん。三曲くらい。」聴かしてもらったのはレイディブルーやサンセットデイビーズホーム。とてもいい曲だ。「あと二曲くらいがんばって作ってみない?そしたらさもう一枚アルバム作ろうよ。こっちのはうんとシンプルにギターと歌だけでさ。」「うん。いいね。」ってなわけで、SSEに電話。「新しいさかなのアルバムを作ってほしいんですけど。で2枚なんですけど。でも一枚はシンプルなんでミックスまで含めて三日、もう一枚の方は五日で作ります。どうでしょうか?」「いいよ。」1994年、夏~秋。ポートレイト、光線レコーディング。予定通り終了。しかしミックスが気に入らずもう一回やりなおしてほしいとゴネるがいろいろとめんどくさそうなのであきらめてしまった。いかんな。1994年12月にリリースした。レコ発は下北沢シェルター。ふたりで地味にファン、レイディブルー、ロッキンチェア、ブルージーンスー。カバーでアメイジンググレイスなどを演奏した。

その後も地味にライヴ活動。このころはたまに服部さんがベースで参加してくれていた。(彼はベースも弾ける。)その頃僕は横浜の小さなデザイン事務所に社員として勤めていた。(雑用ばっかだったけど)ポコペンさんは新宿の文房具を扱う会社で事務のバイトをしていた。ふたりとも地味に黙々働いていたな。そんな風にしていた1995年6月ごろ。このころからいろんな事が起こる。まず僕は勤めていた会社をクビになってしまう。儲からないので人減らしだ。その数週間後、七年間住み続け、絵を描き続けて汚し放題にしていた部屋を大家さんに見つかってしまい来月中に出て行ってください。と云われてしまう。なんとか引っ越しをしてビル清掃のバイトに就いた。そして絵ばかり描いていた。なぜだかその時三つも個展を開く事が決まっていたので。ちょうどそのころポコペンさんも新宿の会社を事情があって辞めていた。彼女も間もなく新しい仕事に就いたけれど。ライヴは時々やっていた。そんなふうにして年が明けて1996年。そのころ僕もポコペンさんも深刻な問題を抱えていた。彼女は「もう私、音楽続けていけないかも。」と云っていた。この問題は人に云える事ではないので書きません。毎日とても落ち込んでいた。考えてみると僕らは落ち込んでばかりいるな。

ある日家に帰って留守電をきく。北海道に旅行中の母からだった。父が死んだという知らせ。一人で家に居た父は近所に買い物に出かけて道ばたで倒れて死んでいたそうだ。近所の人が見つけて警察に通報。病院に運ばれた。とにかく病院へ。行ってみるとすでに弟が来ていた。死因の説明をきくために病院の人と話す。心不全。その後数日間はなにも考えなくてすむほど忙しかった。父の葬式の日は夜、さかなのライヴ。渋谷オンエアでPhewさんの前座だった。一緒に服部さんがベースとリズムボックスで参加してくれた。演奏は、、いいわけない。少し落ち着くと色々考える。ポコペンさんと同じく僕も音楽を続けて行けない気がしてくる。なにしろ母が心配なのでちょくちょく様子を見に行く。このまま一人にしといていいのか?弟は結婚して地方にすんでいるがこのときはずっと母の所に滞在してくれていた。仕事の事も含めこれからどうしていくかさんざん悩む。しかしアホなので答えが出ない。ただこのままさかなをやめてしまうのはどうしても嫌だった。で、ポコペンさんに会いにいく。「あのさ、僕もこれからどうしたらいいのか分からなくなってるんだけど、でもこのままさかなやめちゃうのは嫌でさ。だからもしかしたら最後のアルバムになってしまうかもしれないけどもういっかいアルバムを作りたいんだ。君もたいへんかもしれないけどやってくれないかな。」「うん。わかったよ。」ってなわけで一週間くらいでアルバム分の曲を用意する。以前作ったリトルスワローとハッピーチューズデイも入れる事にした。僕はこのアルバムで密かに計画している事があった。もしかしたら最後になってしまうかもしれないのでだったらもう一度一緒に音楽をやってみたかったひとを集めてみんなと知り合えてよかったなと云う気持ちでやりたかった。恥ずかしいのでそんな事いわなかったけど。やっぱ落ち込んでいたので感傷的だったんだな。そして音楽があって良かったなという気持ちで。だからタイトルはマイディア。同じタイトルの曲が入っていてもちろんポコペンさんが歌詞を書いたんだけどこのタイトルだけは決まっていてポコペンさんにどれかの曲でこのタイトルを使って欲しいと頼んだ。

で、まず勝井さんに電話。「もしもしさかなの西脇です。アルバム作ってもらえませんか。」「ああ。CD?」そう、勝井さんのやっているまぼろしの世界と云うレーベルはカセットレーベルとしてスタートしたものだった。でもCDも時々作ってた。「はぁ。」「うん、まぁ、いいけど?」「で、勝井さんにヴァイオリンとプロデュースをお願いしたいんです。」「いいよ」僕はこの時、最後のアルバムになるかも知れないと思っていた事を言い出せませんでした。ごめんなさい。その後スタジオ代をどうやって清算するか、リリース後どうやって売っていくかなどを相談して交渉成立。勝井さんはこのとき決めた約束を本当にきちんと守ってくれた。僕が色々勝手な申し出をしたにもかかわらず。本当に感謝しています。ありがとう。勝井さん。で、山人に五年ぶりに電話。「やあ。元気?」「うん。」「こんど新しいアルバムを作ろうと思ってるんだけどドラムやってくんない?」「どんな感じなの?」叩いてほしいドラムをなるべく具体的に長々説明する。「うん。じゃあ練習とか無しで、一日だけならスタジオいくよ。」「いいよ。じゃあね。」その後本間の居場所を探しあてて電話、やってもいいよとの事だった。1996年4月マイディア、レコーディングスタート。阿佐谷アーススタジオ。勝井さんがとってくれたスタジオに僕と山人。もちろん勝井さんも。「やあ。ひさしぶり。」「うん。」ってんでセッション開始。山人と二人でとにかく片っ端から演奏。何テイクもテープを回しっぱなしで録っていく。一晩で8曲録った。お疲れさま。帰り際、山人にさりげなく聞いてみる。「もう音楽やんないの?」「うん。やんない。」看護士になろうと思って病院で働いてると云っていたな。それっきり今まで会っていない。何処に住んでるのか、何をしているのかも知らない。でもこの時ようやく山人に対する未練というか、わだかまりをさっぱり捨てる事ができた。ポコペンさんもそうだったと思う。ポコペンさんと僕が、山人から受けた音楽的影響はとても大きいとおもう。ありがとう。

このアルバムで僕にはもう一つの計画があった。いままでのようにあらかじめ出来上がりを想定して準備してから録音するのではなく、いきあたりばったりに思い付いた事を録音していって最後どうなるのかわかんないけど、作りながら曲を発見していこうというもの。というわけでまずは山人と録音した物を聴きながらテイクを選ぶ。それにギターやベースを入れたり本間にキーボードを入れてもらったり。サックスが入れたくなったので勝井さんに相談。「じゃあ泉くんってのがいるから。」ってんでいれてもらう。勝井さんにストリングスとサックスのアレンジも頼む。ハッピーチューズデイやチョコレートのアレンジはとても素敵だ。それからレコーディング二日目に勝井さんは益子さんをつれてくる。「彼にエンジニアを頼もうと思うんだ。とてもすばらしいんだよ。」益子さんは長い事わけのわからない試行錯誤を繰り返す僕に辛抱強くつき合ってくれた。最初の日にセッションを録ってくれたのはスタジオのオーナーのコセさん。そしてそれなりに演奏が録れてきたころテープをもってポコペンさんに会いに行く。色々と曲の説明をしながらボーカルラインの打ち合わせ。彼女は一生懸命素晴らしいフレーズをいくつも考えてくれた。歌詞にもへんてこな工夫をこらしてくれた。歌入れも無事終了してミックスへ。益子さんとミックス。益子さんは無計画に録り散らかされてほとんど24トラック埋まっているそれぞれのパートを注意深く丁寧に吟味してこの曲には何が必要で何がいらないかを考える。シンプルに整理したトラックに効果的なエフェクト処理をしながらリアルタイムでフェーダーを操作してものすごいミックスをした。素晴らしい。本当に。僕はそれまで曲をアレンジしてしまうようなミックスを知らなかった。もし前のようにあらかじめ出来上がりを想定して録音していたらこうはならなかったかも。いきあたりばったりなやり方の計画を説明された勝井さんが益子さんに頼んでくれた、そのプロデュースも素晴らしいと思った。ってなわけで半年近くかかってようやく完成。

レコ発しなきゃね。「どうする?」と勝井さん。「その日だけのバンドを作ってやりたい。ドラムは鈴木くんに。もちろん勝井さんヴァイオリン弾いてください。」色々話し合ってエマーソン北村さんにキーボードを頼む。二曲だけポコペンさんと二人で最初に演奏する事にした。リリース、レコ発は1996年12月。マンダラ2。その後、ポコペンさんと僕はそれぞれの問題をなんとかやりくりしたりおさめたりしながら、さかなを一緒に続けていこうと何度も話し合った。そしてあるときは二人、あるときは鈴木くんと三人、あるときは勝井さんと三人、またあるときは勝井さんと鈴木くんと四人でと云った感じでしばらくの間、変則的にライヴ活動をしていく。そして1998年頃からさかなは四人になっていった。